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circaのブログ

ほんでもまんで生きとるわいね

夏は日向を行け 冬は日陰を行け

「夏は日向を行け 冬は日陰を行け」

これは、見ている人は知ってますね。今週の連ドラ「マッサン」の週タイトルです。

いつもの好奇心でこれを英語で何というのかな、と考えたら、こんな英語が浮かんできました。

 

'Be in the sun on sunny days. Be in the rain on rainy days'

 

これは相田みつをだったか、宮沢賢治だったか、とにかく日本人の詩の英訳です。昔本で読んだ記憶があります。意訳であって、直訳ではないけれど、ニュアンスは同じですよね。

 

それはさておき、今朝のマッサンに泣きました。

エリーを、強引で一方的な特高警察から必死で守ろうとするマッサン。マッサンや娘のエマを案じ、「わたしは大丈夫」と気丈に振舞うエリー。二人の深い夫婦愛。

 

時は第二次世界大戦のさ中。敵国のスパイ容疑をかけられたエリーが特高警察官に放った言葉はこんな風でした。

 

「わたしの何がいけないのですか。わたしのこの鼻ですか。この髪の毛ですか。この瞳ですか。わたしは亀山エリーです。あなたと同じ人間です。ここにはわたしの愛する夫がいます。わたしの愛する娘がいます。わたしはあなたと同じ、人間です」

 

戦争はこんな風に、何の罪もない人たちの静かな生活を脅かし、破壊します。戦争や紛争はひとつの例外もなく、人々を不幸にして傷つけます。善良な市民を、善良な国民を、善良な部族の民を、恐怖と絶望に陥れ、時にはその命さえ奪います。自由を奪われた人たちは、恐怖に縛られ、暴力に傷つき、夢を見る力も奪われ、明日に希望を見いだせなくなる。

 

暴力と暴力のぶつかり合いは、憎しみや怒りを増幅させて、絶望しか生み出さない。まるで出口のない地獄のよう。人類の最たる悲劇は戦争だと、わたしは思うのです。

 

「夏は日向を行け 冬は日陰を行け」という言葉は、人の人生になぞらえて解釈すれば共鳴出来ます。人生はいいことばかりじゃないから、物事がうまくいかない時は、無理に抗わずに嵐が去るのをじっと待つ。寒い日陰の日々も、いつかは終わる。またわたしの頭上に陽が差す日がきっと来る。今は辛く苦しい日陰の時も、時が経てば、あの時の苦労が今の自分を創ってくれたのだと、笑って振り返られる日も来るかも知れない。日陰の時間を少し長く過ごしてきた(んじゃないかな、多分)わたしにとって、この言葉はうなずけるのです。わたしのは、全てが順調で楽しくて幸せな人生では決してなかったし、今でもしょっちゅうつまずいたり転んだりしているし。だからと言って不幸なだけの人生ではなく、幸も不幸も代わり番こなのだけれど。

 

でも、避けられる日陰をわざわざ好んで行く必要はない。

戦争という日陰から日向に出たあとに残るものは、一生消えない心の傷と、身体の傷だけ。戦争を一度も体験したことのないわたしだけれど、過去の歴史を振り返って想像しただけでも分かります。子供の頃、近所のおじさんやおばさん達が繰り返し話してくれた戦争体験。子供心に強烈に胸に刺さった戦争の悲惨さを思い出すだけで、わたしは今も戦争を憎み、恐れおののきます。

今この国の不穏な空気を、強く、或いは何となく感じている人は多いんじゃないだろうか。

戦争は避けられる日陰の道。行く必要のない、断じて行くべきではない道。

この国の在り様を見ていると、その思いは日々強くなるばかりです。

 

「マッサン」が終わると国会中継が始まりました。

わたしの涙はすぐに乾き、心は重く、暗くなります。

「こいつら正気じゃない」

劇中のマッサンの言葉が、頭の中に蘇ってきます。