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circaのブログ

ほんでもまんで生きとるわいね

脳外科の先生

今週のお題「思い出の先生」

 

病床で母との対面を許された時、声も、言葉も出なくなってしまったわたしは、ベッドの脇にしゃがみこんで、母の頬に手を伸ばすのが精一杯でした。母の頬はもう冷たいのに、母の死を瞬時に理解することは、あの時のわたしには出来ませんでした。わたしの後ろで若い看護師さんが泣いていました。そしてもう一人、わたしの後ろに立っていたのは、母の生前最後の主治医の、脳外科医でした。

 

母が脳梗塞で倒れて救急車で運ばれてすぐ、病室に先生が駈け込んで来ました。ただならぬ雰囲気でした。わたしはうろたえて、病室の隅に突っ立っていたような気がします。もう15年も前のことなので、記憶はところどころぼんやりしています。でも先生がわたしに振り返り、わたしをにらみつけて、「なんでもっと早く、お母さんを病院に連れて来なかったんですか」と怒鳴ったことは、今でもはっきり覚えています。母は病院に運ばれた時は、すでに重篤でした。わたしは、いつかこんな日が来ることを分かっていたのだと思います。分かっていたのに、見て見ぬふりをして、母を置き去りにしていたのです。

 

先生はわたしの返事を、或いは言い訳を待っているかのように、長い間黙ってわたしをにらみつけていました。先生の視線は厳しくて、わたしは最後まで先生の顔を直視することが出来ず、うつむいたまま、先生の問いには答えませんでした。「お金がなくて、母を病院へ連れて来ることが出来ませんでした」の一言は、初対面の脳外科医を前にして、わたしには言えなかったのです。

 

母が入院して二日目、わたしは院内のケースワーカーさんの所へ行って、差額ベッド代の減額を相談しました。先生が、母には個室が必要と判断したのですが、わたしは、せめて二人部屋にしてくださいと懇願しました。わたしはその時まだ、先生に何一つ話せずにいたけれど、先生は二人部屋を個室使用にして、そこに母を入れてくれました。それでも尚わたしには、二人部屋の差額ベッド代を支払う余裕などなかったのです。事情を詳しく説明すると、ケースワーカーさんは快く、入院費の減額手続きをしてくれました。素早い対応でした。

 

母は倒れる前、多額の借金を抱えていました。当時70近い母はすでに職もなく、時々年齢不問のバイトを見つけてきては、チラシ配りをしていました。母が作った借金の額は勿論、一枚数円のチラシ配りのバイトで返せるようなものではなく、返済の全ては、わたしが背負っていました。当時のわたしは働いてお金を稼ぐことで精一杯で、母の体調のことなど、考える余裕もありませんでした。昼も夜も週末も働いて、給料日になると母の代わりに銀行を回って返済をし、サラ金ヤミ金のATMを幾つも回って返済をする。毎月、これの繰り返しでした。お金を借りた名義は全て母だったけれど、返済をしていたのはずっとわたしでした。わたしの給料の大半が、母の借金の返済で消え、家賃や光熱費の支払いを除くと、手元に残るのは毎月、ほんのわずかな額だけでした。そんな生活が二年くらい、続いていたと思います。今度はそれに加えて、母の入院費や治療費、検査費等の支払いも、わたしの肩に重くのしかかってきました。

 

主治医の先生には、ケースワーカーさんからわたしの話が伝えらました。母が倒れるまでの二年間、わたしたち母娘がどんな暮らしをしてきたか、今現在わたしがどういう状況にあるかを、脳外科の先生も全て理解しました。それでも先生と母の病室で会う時は、母のその日の状態を詳しく、丁寧に説明して貰うだけでした。先生は勿論、わたしたち母娘のプライベートについては、一切触れることはありません。でも、先生の視線が少しずつ優しくなっていくのを感じた時、先生はわたしに同情してくれているのだと思いました。同情されるのは、わたしは嫌ではありませんでした。

 

11月の寒い日。母を病院に見舞って、紙おむつや細々したものを買い揃えて、洗濯物を家に持ち帰って洗濯し、それから仕事へ行く毎日が始まりました。夜は看護婦長さんの許可を貰って、面会時間の過ぎた仕事帰りに毎晩母の病室へ立ち寄り、母の様子を見てから帰宅する日々でした。土日は、仕事がない日は殆ど一日中、病室で母と一緒に過ごしました。左半身が完全に麻痺して、自力で目を開けることも、話すことも出来なくなっていたけれど、母の意識ははっきりしていました。先生がそう、説明してくれました。わたしが話しかけると、母は動く右手でわたしの手を握ったり触ったりして、なんらかの意思表示をしていました。母の枕元には、いつもラジオを置いておきました。ラジオが好きだった母に、家にいた頃のように、毎日TBSラジオを聞かせていました。病室で過ごす母との時間はとても穏やかでした。母が倒れる前は、あれほど借金のことで対立し、口論を繰り返し、わたしは一度は家を出て母を捨てて逃げ出したのに、母との最後の三カ月間は、自分でも信じられないくらい母が愛おしく、幸せな時間でした。病室は暖房が効いていて温かく、喉にチューブをさして栄養を入れるだけの食事でしたが、母はもう、飢える心配はありませんでした。

 

その母が、年が明けた1月の末に、逝ってしまいました。

 

脳梗塞と心臓肥大、糖尿病の悪化。母は数えきれない程の病魔に侵されていました。その全てがもう、病院に運ばれた時には末期的な状態でした。それでも、母の入院が三カ月目を迎えた1月の初旬、先生は母を転院させずに「僕がずっと診ますから安心してください」と、心強い言葉をかけてくれた矢先のことでした。

 

母が亡くなり、本来ならこの脳外科の先生とわたしは、ここで終わりの筈でした。先生の、これまでの献身的な治療とご助力に感謝して、わたしは病院を去る筈でした。けれど先生とわたしは、ここで終わりませんでした。先生は、母を失い悲しみに暮れるわたしの、心のケアを買ってでてくれたのです。母の死から間もなくして、脳外科の医師との、心理カウンセリングが始まりました。

 

先生はわたしに、「辛くなったらいつでもおいで」と言い続けてくれました。「お母さんを亡くして軽い神経症になっただけだよ。すぐによくなるから」と、わたしを励まし続けてくれました。今思えば、脳外科医が精神科医の役割をしてくれるなど、普通ではあり得ないことなのに、あの先生は嫌な顔ひとつせず、週に3回も4回も先生の診察室へ駈け込んでは泣いてばかりいるわたしを、いつも受け止めてくれました。わたしは脳外科の診察室で、これまでの辛かった二年間の話を、母娘が満足に食べられなかった話を、サラ金闇金の取り立てがいつも恐ろしくて怖かった話を、全てを先生の前で吐露しました。先生が処方してくれた薬はデパスだけ。あとはずっと、先生は時間の許す限り、わたしの話を聞いてくれました。なのにわたしの診察代はいつも、50円とか70円でした。先生がどういう点数の付け方をしていたのか、わたしには今でも分かりません。でも先生はいつも、わたしから極力診察代を取らないように配慮してくれていました。

 

ちょうどその頃、わたしは職場で同僚の男性に、ストーカー行為をされていました。その人の行動が日に日にエスカレートしていって、わたしの携帯電話には毎日、何十本もの嫌がらせの電話が来るようになっていました。わたしは怖くて、携帯をいつも留守電にして、電話が鳴ってもとらずにいました。母の納骨が終わったとはいえ、母の死を何処からか聞きつけた母の遠い知人や、名前も聞いたことのない消費者金融から、母の借金を完済してくれと催促の電話が鳴りやまない日々が続いていた頃でした。わたしは疲弊し切っていて、もうまともな判断が出来ない状態にありました。そんな折に、男性からの執拗な電話もまた、ひっきりなしでした。わたしの心は恐怖でがんじがらめになり、生きることにも疲れ果て、先生に「消えたい」とばかり漏らすようになっていました。

 

ある晩、仕事を終えて帰宅する途中、いつものように先生のいる病院の前を通りかかりました。ストーカー行為が始まってから暗い夜道はことのほか怖く、明かりのついた病院の前を通って帰るのが、一番安全に思えました。もしかしたらその人が背後からつけて来ているかも知れない。そんな妄想がわたしの恐怖心に拍車をかけ、携帯の着信音が聞こえないように、イヤフォンをつけてCDウォークマンで音楽を大音量で聴きながら歩いていました。その時、病院の職員通用口から、人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えました。ビクっとしてその人と目を合わせないようにうつむいたまま通り過ぎようとすると、その人影はわたしの耳元で大声で話しかけてきました。

 

驚いて顔を上げると、目の前に先生が笑顔で立っていました。まさかストーカーの件を心配して、先生がここで、わたしの帰り時間に合わせて待っていてくれた? 信じられないような気持で、わたしは即座にイヤフォンを外しましたが、先生の問いかけに口ごもってしまって、うまく答えられませんでした。なぜ母の主治医だった脳外科医が、わたしなどの為にここまでしてくれるのだろう。本当は、先生の笑顔を見た瞬間、ものすごく安心して、嬉しくて仕方がなかったのに、わたしは照れくさくてしどろもどろになりました。先生も心なしか、いつもより早口で喋っていました。「大丈夫?」と聞いてくれる先生の顔を見上げた時、病院前の大きな桜の木から、花びらが風に吹かれて舞い落ちてきました。

 

先生がいてくれている。そのことが、何よりも心強かったです。

 

その日から、ストーカー行為が完全に終わるまで、先生とわたしは、仕事の帰り時間が合うことが多くなりました。先生もわたしも、通りですれ違いざまに軽く会釈するだけでしたが、わたしは胸がドキドキしました。誰にも言えなかった、わたしが自分の心にしまい込んできた二年間の苦しみを、先生だけが知っている。先生だけがわたしのことを分かってくれる。わたしは先生を、身近に感じるようになっていました。この頃から先生は単なる主治医ではなく、わたしにとって特別な存在になっていきました。

 

でも桜の季節も終わり、先生とのカウンセリングが始まって三カ月が経った頃、先生はわたしに、同じ町にある精神科病院へ転院しないかと勧めてきました。わたしは、嫌ですと答えました。わたしは精神病ですか? 精神病院なんて怖くて嫌ですと言いました。先生は否定するそぶりも見せず、「そうだよね、精神科病院は怖いよね」と、わたしに同調してくれます。でも話が進むにつれ、先生の意思の固いことが、言葉の端々から伝わってきました。「D病院にY先生という方がいる。とてもいい先生だよ」先生は静かにそう言います。それでもわたしは頑なに転院を拒み続けました。カウンセリングが終わり、診察室を出て行こうとすると先生は、「一週間時間をあげるから、よく考えてきて。一週間後にまた会おう」と言いました。その日のカウンセリングは、一時間半にも及びました。途中で看護師さんが、何事か急用を伝えに来ても、「あとで行く」とだけ言って、先生は一時間半ずっと、わたしの前に座っていてくれました。先生のもとを離れるのは嫌だと強く思う一方でわたしは、こんな聞きわけのないことを言っていたら駄目だと、分かっていました。わたしはその日も、受付で50円だか70円を払って、デパスの処方箋を貰って帰りました。

 

そして一週間後、わたしは精神科病院への転院を決心しました。先生と別れることは、身を切るような辛さでした。今振り返れば、わたしはとても甘ったれた患者で、先生の医師としての優しさも熱心な治療行為も、何か別のものとはき違えていました。脳外科医として多忙を極める中、毎回一時間近く、時にはそれ以上の時間をわたしの為に費やしてくれた先生。先生のもとを離れることはとても不安だったけれど、もうこれ以上、先生を煩わせてはいけないことは、自分でも分かっていました。この先生を前にしてわたしはこれ以上、だだっ子みたいな真似は出来なかったし、したくはありませんでした。

 

最後の日だけ診察代が、いつもより少しだけ高かったのを覚えています。診察室を出ようとした時先生が、「今日は少しゆっくりしていこうか」と言って、わたしにブドウ糖の点滴を打ってくれたからです。母を失い、今まで感じたことのない強烈な淋しさと孤独に襲われる毎日。そして今度は先生のもとを離れていく不安。わたしの心は完全に押し潰されていました。先生と話がしたくて仕方ありませんでした。でも点滴を受けている二時間弱の間、先生は一度もわたしの様子を見に来てはくれませんでした。処置室の薄汚れた天井を見上げながら、涙はあとからあとから流れてきました。

 

先生が好きでした。

そんなことは口が裂けても言えなかったけれど、先生が大好きでした。

 

わたしは、その時先生に紹介して貰った、精神科の先生のもとに今も通っています。精神科の先生とのお付き合いはもう10年を過ぎました。精神科の先生は、脳外科の先生が言っていた通りの、それ以上の先生でした。わたしを先生と引き合わせてくれた脳外科の先生にある日、わたしはお礼の手紙を一通書きました。丁寧に一生懸命書いて、病院宛に送りました。もう10年以上も昔のことです。この話をすると、精神科の先生はわたしのカルテから顔を上げて、「F先生、それはお喜びになっているでしょうね」と笑いました。

 

精神科の先生は今でも時々、脳外科の先生の話をわたしにすることがあります。本当に時々だけれど、何年か前には「あ、F先生ね、あの病院お辞めになって、今はM市の病院にお勤めだそうよ」と、さりげなく話してくれました。わたしは何も聞いていないのに、なぜF先生の話をするんです先生?と、とぼけた顔をしてみても、精神科の先生は全てお見通しといった風です。わたしの反応を見てケラケラ笑います。そしてある時一度だけ、先生がこう言ってくれたことがありました。

 

「医者はね、患者に恋をすると、治療がうまくいかなくなるのよ。だから先生は、わたしにあなたを託したのね」

 

あの春の夜、頭上から舞い落ちてきた桜の花びらが、今も脳裏に焼きついています。

先生は今もお元気でいらっしゃるだろうか。

すべては遠い過去の記憶だけれど、今でも時々、先生を懐かしく思い出すことがあります。

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