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circaのブログ

ほんでもまんで生きとるわいね

恋物語

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

 

人生に影響を与えた一冊を選ぶことは、実はわたしには出来ません。10代の頃読んだ、太宰治の『走れメロス』や、サン=テグジュペリの『星の王子さま』、20代の頃深く感銘を受けた、ヘッセの『知と愛』や『シッダールタ』、そして30代にはカズオ・イシグロの『日の名残り』。ジッド遠藤周作も好きでよく読みました。他にも、数限りないエッセイや随筆もあります。わたしの人生に本の影響がなかったことなどおそらく一度もなく、それは今現在も続いています。年齢を重ねると共に本の好みも変わりました。それに生きている以上、わたしを取り巻く状況も常に変化し続けているので、感銘を受ける本の内容も、その都度ガラリと変わります。だから本当は一冊だけを選ぶことは、わたしには難し過ぎて出来ないのです。

 

でも今回は敢えて、Spanish Drumsという小説を選びます。ハリー・チャップマンというイギリス人作家が書いた物語なのですが、確かスペイン内戦時代のバスク地方が舞台だったと記憶しています。作家自身の実体験をもとに書かれたフィクションで、悲しい恋の物語でもあったと思います。内容もろくに覚えていない本だけれど、わたしが死んだ時、棺に入れて欲しいと思っている一冊です。

 

この作家とわたしは、当時お付き合いをしていました。この小説は彼の処女作で、イギリスで90年代初頭に発売され、当時二人でデートの度に、ロンドン中の本屋さんを訪ね歩いては、彼の本を店頭に置いて貰うよう、笑顔で挨拶をして回ったのを覚えています。駆け出しの小説家って大変なんだなと思いながら、凍てつく真冬のロンドンの街を歩き回り、本屋さんを見つけては、コートのポケットから手を出して背を正し、笑顔で扉を開けて挨拶をする。そんなことを繰り返していました。だから小説がわたしに影響を与えたというよりは、作家本人がわたしの人生に影響を与えてくれた、というのが本当のところです。

 

情熱的でロマンスに満ちた、悲恋だったけれど。

 

彼からは、どれほど文学を教わったか分かりません。彼が語る文学は、いつも生きた『生の』言葉でした。学校の講義で教わるそれとは全く違うのです。彼は古典文学にも現代文学にも『生命』を吹き込み、自分の言葉でそれを語るのが上手な人でした。当時、小説を書いているだけでは生活が成り立たなくて、副業で別の仕事もしていた彼と、苦学生だった外国人のわたし。互いにお金がない者同士、文学を語り合う場所は、川沿いの安いカフェだったり、パブだったり、地下鉄駅構内のハンバーガー屋さんだったりしました。そして徐々に、彼の小さなアパートでも、一緒に本を読んだり、読み聞かせて貰ったりするようになっていきました。

 

若い頃から本を読むのが好きだったわたしは、英詩や外国文学も好んで読んでいました。彼と二人きりで話すようになったのは、お互いの文学の趣味が似ていて、それで意気投合したのがきっかけでした。内気な二人が出会ってから付き合い始めるまでには、一年以上の時間を要するのですが、文学の話になるといつも時間も忘れて、お互い饒舌になりました。でも文学云々は単なる口実で、わたしは彼のことが大好きでした。だから彼と笑って過ごせる時間は、話の内容が何であれ、嬉しくて幸せでたまらなかったのです。

 

当時、彼のことをもっと理解したくて、Spanish Drumsを何度も何度も読み返しました。英語がよく分からず、読解力も今の何分の一にも満たなかった頃です。この小説は正直、わたしには難し過ぎました。でも彼が小説家として踏み出した一歩を一緒に祝い、喜び、彼の本が市内の本屋さんに積まれているのを見ると、嬉しくてたまらなくなりました。わたしは次第に、彼の一番傍で、夢を追う彼を支えたいと思うようになっていました。彼もまた次回作に向けて、希望や夢がどんどん膨らんでいた時期でした。

 

でも人生ってよく、わたしに悪戯をします。単にわたしの生き方が不器用なだけなのでしょうが、あの時見た夢は、夢のまま終わってしまいました。残念なことにその後彼の夢もまた、潰えてしまいます。本来なら三部作で完結する筈だったSpanish Drumsは、二作目の発行の後、完結編を待たずに廃版となってしまいました。

 

彼との別れは、それまで苦労らしい苦労も知らずに生きてきたわたしが初めて経験した、人生の番狂わせでした。わたしは25歳でした。

 

それでも、彼と別れた後わたしはロンドンで職を見つけ、翻訳会社で働き始めます。彼とお付き合いしたおかげで話す方が得意になっていたわたしは、通訳者として重宝され、欧州やイギリス国内を仕事で回る機会にも恵まれました。そして帰国後も、難病を発病する少し前までは、通訳兼翻訳の仕事をしながら生活をしていました。

 

直筆のサインと一緒にやさしいメッセージが、表紙の裏に書き添えてある一冊の本。今も手元にあるこの小説を、わたしはもう開いて読むことはありません。でも、この本と作家との出会いがわたしの人生に影響を与え、わたしを大きく揺さぶり、その後の人生を豊かにしてくれたのは事実です。

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